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伏見の究極のエコ素材「ヨシ」にまつわるお話

伏見区の宇治川の河川敷に広がるヨシ原。

 

ここでは冬から早春にかけてヨシを刈り取り、火を入れる「ヨシ焼き」が行われてきました。

 

伏見の三栖地域にはこのヨシを使って「簾(みす)」や「すだれ・よしず」を作る家が何軒も並んでいたそうです。

 

一方、このヨシ原は、ツバメが東南アジアへの渡りの前に集まるねぐらとして西日本一の場所でもあります。

 

2010年にヨシ焼きが廃棄物の処理及び清掃に関する法律(以下「廃掃法」)に抵触するおそれがあると禁止されたために、ヨシ原に雑草が茂り、屋根材としてもツバメのねぐらとしてもヨシ原の維持が危ぶまれていました。

 

それに危機感を覚えた「伏見のヨシ原、再発見!」プロジェクトは様々な取り組みをしてヨシ焼きの復活にこぎつけました。

 

建築資材にもなり、ツバメのねぐらでもある、そんなヨシは伏見の究極のエコ素材とも言えます。エコライフでは、山城萱葺屋根工事という茅葺屋根の会社の事務で、プロジェクト事務局長もされている奥田さんにお話しを伺いました。

 

 

プロジェクトが始まったきっかけは?

きっかけは2つの京都新聞の記事です。

 

まず、2011年の7月に、「不要なヨシが廃棄物と判断され、廃掃法に基づいてヨシ焼きを市が禁止した」というものです。

 

ヨシ原の維持に欠かせないヨシ焼きの禁止によって、ツバメのねぐらとなっているヨシ原の存続が危ぶまれていました。

 

次の記事はこれまでヨシ焼きを行ってきた山城萱葺屋根工事の山田さんが答えていますが、「ヨシ焼きが禁止されるとヨシの質が悪くなり、屋根材として使えなくなる」ということが書かれています。

 

そして、伏見の自然や歴史を受け継ぐ活動をしている伏見学舎のメンバーがこれらの記事を見て、ヨシに関係する人々が出会うこととなりました。

 

そして、ヨシ原保全に向けたシンポジウムを開催することになりました。

 

 

新聞記事がきっかけなんですね?

そうなんです。

ツバメの観察をしていた人も、ヨシをヨシズや屋根に使っていた人も、お互いの存在を知らなかったんです。

 

宇治川に広がる伏見のヨシ原は近畿で最大級のツバメのねぐらであること、一方そのヨシは少し前まではヨシズとして使われ、今でも茅葺の材料として使われていること、それらを新聞記事でお互いに始めて知りました。

 

そこで、まずはヨシ原とはどういうものか、どんな人が関わってきたのかなどを知るために2011年12月にシンポジウムを開催しました。

 

 

シンポジウムはどうでしたか?

シンポジウムでは、森林総合研究所の奥研究員に「水陸両用の移行帯としてのヨシ原の環境のおもしろさ」、山城萱葺屋根工事の山田さんに「ヨシの歴史やなぜ自分がヨシ葺き職人になったか」、京都野鳥の会の会長の山副(やまぞえ)さんに「ツバメのねぐらの話」、中村さんに「伏見楽舎の活動の話」を伺いました。

 

伏見のヨシは、高台寺の時雨亭などの屋根にも使われていて、ヨシ原を守ることは文化財を守ることにもなるし、ツバメのねぐらも守られる。

 

シンポジウムを通して4人が出会ったことで、いままで知らなかった事実が浮かび上がってきました。この出会いをきっかけに、伏見のヨシ原を守る市民活動を立ち上げようと「伏見のヨシ原、再発見!」プロジェクトがスタートしました。

 

 

プロジェクトでは具体的にはどのような活動をされましたか? 

行政への交渉と並行して、自分たちでもっとヨシ原の価値を学んでいくための公開講座を行いました。

 

伏見のヨシ原の歴史的な側面や、ヨシ焼きのしくみ、ヨシをたいまつとして使う三栖の炬火祭の歴史を学んだり、ヨシ原でのツバメの観察会を実施したり、約1年間ヨシに関する勉強会を開催し、地域の方々とヨシ原の魅力を見つける取り組みをしました。

 

 

その結果、ヨシ焼きを復活させる事ができたそうですね。

何度も京都市、国交省などと相談を重ね、2012年11月にヨシ原プロジェクトの目的を鑑み、市民活動としてのヨシ焼きを認めていただきました。

同年12月には2回目のシンポジウムを開催し、それまでの取組の報告や、行政との相談の様子などを報告して、翌年3月のヨシ焼き復活を迎えました。

 

ヨシ焼きが禁止されたという新聞記事が2011年の7月。

それからプロジェクトの動きが始まり、約1年半でヨシ焼きの復活にこぎつけたわけで、かなり早い動きだという印象を持ちました。

 

もちろんその中では精力的に勉強会を開催され、皆さんでヨシに関する多方面の事柄を勉強されています。

 

短期間に活動を行い、同時に行政の多くの機関とも交渉をされてきたのは、やはり、このプロジェクトの事務局長をされている奥田さんがキーパーソンなのではと感じます。

 

 

そもそも奥田さんは、なぜ茅葺屋根に興味をもたれたのですか? 

直接的には、東京で児童書の出版社で編集の仕事をしていた時に、自然科学を扱った分野を多く担当し、その時に草屋根の本を作ろうかと思ったことです。

 

そんな時に、私の先輩で茅葺職人になった人のことを思い出して連絡を取りました。

それが代表の山田さんです。

それまで会社には茅葺職人ばかりなのですが、山田さんによれば職人をいくら育てても茅葺に住む人々が増えないと仕事がなくなる、つまり茅葺の家に住んでくれる人を増やしたいということで、職人とは違うような人材を求めていました。

 

『三匹のこぶた』の話にも「わらの家」がでてきますが、私自身も「自然の素材が生活の中に使われ、ヨシ屋根のように自然に還る素材を使って循環する暮らしはいいな」と思うようになったんです。

 

そこで出版社を辞め、2011年2月に入社しました。

ちょうどヨシ焼きが禁止された年です。

私はもともと宇治で育ち、子どもの頃のキャンプでの先輩が山田さんでした。

 

その後、京都で西洋美術史を勉強し、芸術センターのアートコーディネーターとして日本の伝統文化を担当する仕事をしてから東京の出版社に転職し、そこで草屋根のテーマに出会いました。

 

大学は西洋美術専攻なのに、仕事では京都の伝統を扱っていたこと、文系だったのに、科学を扱う児童書の編集者になったことなど、なぜか違う道に行くことが多かったんですよ。

 

でもそれがとても面白い。

振り返ると、偶然の積み重ねです。

でも、アートコーディネーターも編集の仕事も、「人と人の間に入って何かをつなげること」が仕事です。

あまり意識していませんでしたが、どうも私はそういうことがしたかったみたいです。

 

このプロジェクトでは様々な人との出会いがあり、それが状況を変えてくれました。人をつなげる経験がプロジェクトにも役立ったようです。

 

 

お話しを伺うと、奥田さんの経験のどれか一つが欠けても、今のプロジェクトに参加することはなかったし、プロジェクトの成功もなかったのではないかと感じます。では、今後の展望について教えて下さい。

まずはヨシ焼きの定着です。

もっと多くの人にヨシ原について知ってもらって、市民がヨシ原を自分たちの財産だと思ってほしいです。たとえばヨシ焼きが、この地域の3月の風物詩になればいいですね。

 

もうひとつは伏見のヨシでヨシズを復活させることです。

三栖のヨシズ屋さんは全部廃業されてしまいましたが、炬火祭のたいまつ作りにヨシズ作りの技術が継承されているので、今ならヨシズの復活も可能です。

輸入のヨシズと違って伏見のヨシは丈夫なので、5年10年と持ちます。

 

品質の良さという付加価値をつけることで新たな魅力になるのではないだろうか、少なくとも地域の人は、伏見のヨシを使うことで、伏見の中でヨシが循環できないか、などと考えます。

 

 

ヨシズを使うようなライフスタイルが浸透して輸入物のヨシズを毎年買うようではもったいない、という意識になれば伏見のヨシズを復活できるかもしれませんね。私達も、伏見ならではのヨシズを使うエコライフの拡大を目指したいと思います。では最後に何かありますか。 

今回の件では、行政の担当者といろいろご相談する中でアドバイスをもらい、ヨシの文化や伝統を地域の方々と学ぶ機会を得ました。

ヨシ焼き中止がきっかけで、逆にヨシについてよく知ることになったともいえます。

怪我の功名でしたが、いろいろな縁を生み出すことにつながりました。

今後の活動には、できるだけ若い人にも入っていただき、より活発に活動していきたいです。

 

 

 

ヨシにまつわるお話は、自然から歴史、文化、そして文学など様々な方面に広がり、奥田さんのこれまで歩んでこられたいろいろな経験もリンクしてとても面白い取材でした。

ヨシズの復活、さらにヨシを使う新しいライフスタイルも考えてみたいと思いました。

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